箱とマーマレード

うたプリファンブログです。愛と感想と考察を書きます。

上松範康『アニソン・ゲーム音楽作り20年の軌跡〜上松範康の仕事術〜』を読みうたプリの今後を想うオタク

上松範康『アニソン・ゲーム音楽作り20年の軌跡〜上松範康の仕事術〜』(2018, 主婦の友社)を読んだ。

結論から言わせてもらうと、うたプリの章に関しては「私が愛したうたプリの姿に間違いはなかったな」と思った。

 

最近、紺野さんや上松さんなどのうたプリに関わった人のインタビューを読むのがブームで、5th Anniversary Bookや劇団シャイニングビジュアルブック、オトメディア2019年6月号掲載の劇場版関連のインタビューを読んでいた。

私は制作に関する話や原作者が込めた思いを知るのが好きである。自分の感動の“答え合わせ”をしたいのだ。自分がこの作品の何に感動したのか、それにはどういった仕掛けが施されていたのか。作り手側の雰囲気や作品に込められた思いをわずかでも知ることで、自分の感動とその理由が言語化ができるような気がするからだ。

その流れで、今まで気になっていたが未読だった上松さんの本を購入した。

 

上松さんについては、これまでのうたプリに関する各種インタビューやTwitterでのつぶやきから、非常にクリエイティブな人だなとは思っていた。

……というか、あの「マジLOVE1000%」とかいう初見ではヤバすぎる(ドキドキよりも笑いが込み上げてくる。当時中3・うたプリを見る前の私は「こんなん絶対クソアニメやろw」と完全にナメていた)題名を考えた張本人なのだから、常識を裏切るような発想ができる人なのは想像がついた。

上松さんが5th Anniversary Bookで語っていた、「うたプリを企画した時は周囲の大反対にあった」という話は今回の本でも語られていたし、意識的に・あるいは無意識に常識を打ち破る形でうたプリの企画をスタートさせ成長させていったというのも、やはり上松さんの常識に囚われない発想とそれに対する強い自信の存在を裏付けるエピソードとして非常に納得できる部分であった。

 

まぁここまでしか読まなかったら「上松さんがとても発想豊かですごい人で、そんな人がうたプリを作ったんだなぁ、すごいなぁ」で終わるのだが。

私がうたプリオタクとして非常に嬉しかったのが、上松さんと紺野さんが考えるうたプリの美学についての話である。

僕と紺野さやかさんが考える『うた☆プリ』の美学は〈攻める〉です。とにかく攻めて、決して守らない。なぜならアイドルは挑戦する姿こそが美しいからです。(p105)

そう、「常識に囚われず新しいことに挑戦すること」は、ただ上松流仕事術であるというだけではなく、『うたプリの美学』なのである。うたプリという世界のぶれない軸が、ここに設定されているのである。

私はこの本を読むまで、てっきり「愛」とか「夢」がうたプリの「美学」だと思っていた。実際このふたつのワードは、うたプリの歌詞をテキストマイニングしたという調査でも頻出上位2単語となっている(出典:【アイドル研究/歌詞編②】みんな違ってみんないい。 - I am Natsco)。

まぁ愛や夢がうたプリ世界の中心にあるというのも実際間違いではないと思うが、最近のうたプリの傾向を考えると、この「愛」や「夢」の描き方にも〈攻める〉美学が反映されているように思う。

 

前回の記事とも重なってしまうが、うたプリ乙女ゲーム……つまり男女の恋愛を描いたゲームとして出発した。プレイヤーは主人公・七海春歌となって作中のアイドルたちと恋愛をし、アイドルになるという夢を叶える。その出自を受けてか、ドラマCDの劇団シャイニング、シアターシャイニングでも、所謂シチュエーションCDのように「聴き手が物語内で存在するスペース」が設けられていた。

しかし、2018年に発売されたShining Masterpiece Showはついにそのスペースが無くなる。ここでうたプリのドラマCDは、聴き手とアイドルの恋愛を描かなかった。代わりに描いたのは、その意味を拡大させた、登場人物たちの「愛」と「夢」である。Lost Aliceでは、夢のような不思議な世界で「家族愛」を、トロワでは、それぞれに夢を抱く三銃士たちの「仲間との絆」を、リコリスの森では、叶わぬ夢を2人だけの世界で叶える「禁断の愛」を、描いた。

うたプリは、出自に固執することなく、自ら「愛」と「夢」のあり方を拡大したのである。うたプリは「男女の恋愛」「アイドルになる夢」から一歩踏み出し、それらを内包するより広い概念に手を伸ばすことで、うたプリの世界をさらに広げたのだ。

 

そもそも私がうたプリを好きになったのも、「うたの☆プリンスさまっ♪マジLOVE1000%」という衝撃的(笑)な題名があってこそである。

もしももっと無難で、ありがちな題名だったら、当時女性向けコンテンツに興味のなかった私は見向きもしなかっただろうし、もし目にしたとしてもすぐ忘れていただろう。

私がはまってから後も、HE★VENS登場、どんどん大きくなるライブ会場、KEITAMARUYAMAコラボ、舞台化、CGでのMV作製、そして劇場版ライブなどなど、「まさかやらないだろう」「うたプリではやらないだろう」と思っていたことを次々とやってくれた。

このようなうたプリの挑戦的な姿勢があったからこそ、私はうたプリに出会えたし、飽きずに8年もオタクをやっているのだ。これらの驚き、衝撃、笑い、感動、全てうたプリの〈攻める〉美学の賜物だったのだ……。うたプリのこの姿勢を愛した私の目に間違いはなかったなと思った。

 

うたプリは永遠』……この言葉に嘘はないと語る上松さんと、それによって紡がれるうたプリワールドを信じて、6月の劇場版を待とうと思う。

 

 

追記

本についてひとつだけ批判的なことを言わせてもらうなら、やはり春ちゃんの痴漢のシーンはいただけなかった。上松さんが「あのシーンは批判されたけど必要だった」という旨を語ったページには正直がっかりした。性的な被害を受ける恐怖は、「天然で純粋で誰でも信じる」人間でもやはり恐怖である。痴漢の被害者は「人を信頼していないから」痴漢を痴漢扱いするのではなく、他人から明確な悪意と加害の意思を持たれていること、自分が人間ではなく「モノ」としてしか見られていないことに恐怖するのである。この恐怖は、例えば不審者に話しかけられた小学生でも感じる。春歌の「純粋さ」の表現にあの言動を配置したのは、ふさわしくないと言わざるを得ない。

うたプリは正直、ジェンダーに関して敏感な昨今の状況を特別に意識しているわけではないように感じる。「アイドルの清潔感を大事にしている」という紺野さんの奇跡的なバランス感覚が、女性にとって安全そうな空気を 偶然 作っているように思えてならないのである。なのでうたプリは、時折無自覚に「女らしさ」のステレオタイプを押し付けてくることがある。

女性向け作品でも男性が作る例が多数である現在は、他作品も「女性向け」なのに女性に対して旧来の価値観を押し付けるような描写がされることも多い。しかし、正直アイドルたちがそういう古臭い言動をしているのは見たくない。アイドルたちには、常に若くいてほしい。アイドルたちに、新しい時代を作っていってほしい。アイドルには、夢と希望を見せてほしい。

 

うたプリのことはとても信頼している。アイドルたち……つまりうたプリ世界の創造者たちは、我々を楽しませるために常に〈攻め〉の姿勢を崩さない。

だからこそ、新しい時代のエンターテイメントとして、思想的な先進性も期待しておこうと思う。古い「面白さ」の評価軸が機能しなくなる前に、うたプリが変化していく価値観に対応できることを期待して追記を締めさせていただく。

 

 

他にも着目すべき点、特に「今回の本に表れた上松さんの思想がうたプリの歌詞にもはっきりと表れている」という点については再度記事を書くかもしれない。テキストマイニングを自力で行なって、上松さんがうたプリで描こうとしていることの変化を読み解くのも面白いかもしれない(アニメで使われたST☆RISHの曲、つまり“アニメのエンディングテーマとアニメ終盤の大切なシーンの曲”で分析すると非常に面白そう)。