箱とマーマレード

うたプリファンブログです。愛と感想と考察を書きます。

刀剣乱舞/灯 改変 いくさ世の徒花の記憶(ネタバレあり)

綺伝改変を見てきた…。

 

久しぶりの舞台。

脚本に感動したのはもちろんのこと、絶対に綺伝本編をやるぞという気持ちを端々から感じて泣いた。

舞台が好きだ。

この灯を絶やしてほしくない。

 

 

(8/9追記:大千秋楽配信見ました。改めて気づいたことやその感想も入れます。)

【8/9の感想】

最後の挨拶で泣きすぎてべしょべしょになった。この大千秋楽はただの大千秋楽ではなかった。これは刀ステの、それどころか演劇全体の命の灯がかかった大千秋楽だった。無事に見届けられたことが幸せであり、かけがえのないものだった。

山姥切長義役の梅津瑞樹さんの力強い言葉が印象に残った。

 

「これが刀ステです、演劇の力です!」

 

こんな状況でも勢いそのままに形を変えて届けるその想いが本当に響いた。戦い続ける座組としての刀ステの挑戦、そしてその挑戦を叶え魅せる舞台という表現方法の柔軟さ、それゆえの原始的な力強さを本当に感じられた作品だった。

 

舞台という表現が去年まで行っていたものは、突如形を変えてしまった社会には合わず、舞台に関わる人々は息苦しく窒息するような思いをしているのだろう。相次ぐ公演中止、上演形式の変更、そういったところから生じる金銭的な影響も、練習ができないといった技術的な影響も甚大だと思う。そんな苦しみの中の足掻きを、いち観客にすぎない私が消費してしまってもいいのかという考えもある。しかしこの作品は、「上演形式変更で哀れにも本調子の出なかった舞台」ではなかった。むしろこの状況を逆手にとって表現に織り込んでしまう、圧倒的な、本当に圧倒的な強さがあった。正直、こんな逆境じゃないと見られなかった。舞台は強かった。きっと私のこの感動は、哀れに弱ったものの涙の苦労に抱く感動ではなく、むしろ苦しみの中の足掻きすらもエンターテインメントの糧にしてしまったその柔軟さと見事な手腕、そしてその奥に、彼らの"灯"への渇望と決意を見たことへの安心感なのかもしれない。

舞台は素晴らしい。そして、強かった。

必ずまた観に行きます。

 

 

 

【7/28感想】

・心に残ったシーンは数あれど、やはり元の主と同じことを歌仙にさせる最後のシーンに抉られた。歌仙は元の主が自分を使って36人を手打ちにしたことを雅じゃないと言っているし、少なくとも愉快な逸話だとは思っていない。どちらかというと負の感情を持っていると、私は認識している。その歌仙に、元の主が出来なかった妻殺しをさせ、その妻の血がついた刀を歌仙が自らの着物で拭う。鬼とは脚本家ではないのか…。歌仙はこれで元の主と同じ罪を背負ったのだ。果たして人ではない歌仙は赦されることはあるのだろうか。

・山姥切長義は、刀剣男士は人ではないということ、歴史を守るのは刀剣男士の本能だということに繰り返し言及していた。この2点は今までの作品でも言及されていたが、ここで改めて繰り返すことで地蔵行平の行動の特異さ、ガラシャが「弟のようだ」と言って親しみを覚えた彼の人臭さが強調されていたのかもしれない。そしてこの人ではないというところがキリシタン大名たちには残酷だった。彼らの信仰、友愛、そういったものを切り捨てても歴史を守る刀剣男士。その、絶対的な人との区別。この物語は、主という人間に仕えるモノたちの物語だけど、それは無数の人の思いや願いの敗北の物語なのか。

ガラシャ、絶対当て書きでぴったりで最高だった…。夫の気持ちを確かめたいと言っていた美しい妻が、本当は赦されたかっただけだと言って人ではない何かに成り、着物を脱いでタキシードを着、薙刀を持って戦う。宝塚の男役を演じていた役者さんという背景を活かした変身だと思った。その後も声色を使い分けて、神としての男役っぽい声と、時折覗かせる人臭い元のガラシャの声、その二面性が非常によかった。人から人ではない何かに変身したことを、元宝塚男役という一種の二面性のある背景に合わせたことで、普段の日常の理論とは違う存在になったという意味の違和感が、神聖さを伴って美しく、そして恐ろしく伝わってきた。役者は舞台上で役を演じることで神性を帯びるが、あのガラシャは神性を帯びたことで"役が降ってきた"のかもしれない。

・全体的に、舞台的なデフォルメを使うことで接近を出来るだけ減らすという演出だった。「2人とも客席を見ているが2人は会話している」とか、「壇上で切る動作をしたら下段のキャラが切られ動作をする」とかそういうやつ。その結果客席に伝わる情報が限定されるのだが、講談師を置くことで情報量や勢いを補いつつ、そのデフォルメが客席に想像力を依頼していること自体をわかりやすくしていた。演出として面白かったなぁ。「他の本丸の記録をなぞっている」という設定と上手く噛み合っていた。刀剣乱舞はこのメタな状況の利用が巧すぎるな…。役者同士の距離を取らなければならない現実の社会の状況を、舞台的なデフォルメを効かせて講談師を置いて物語内物語に仕立てて勢いはそのままに違和感を減らし、さらに本来やるはずだった形の舞台もいつか上演するという決意も暗に伝える。刀剣乱舞の運営そのものが痛快だ…。

・物語全体が、「他の本丸の出陣記録を、刀ステ本丸の歌仙たちが読む」という形式で綴られていた。(最後の本丸でのシーンで籠手切江は引き止められていたけど獅子王は引き止められなかったのを見ると、刀ステ本丸だと獅子王は出陣してないのかな…?)  (8/9追記:いや飯屋のシーンで出陣したっぽいことを言っていたので出陣してそうですね…)刀ステ本丸の歌仙や長義は、黒田の様子が違うと言っていたし、黒田はどうやら三日月宗近に近いような状況にあるようだったし、この人は綺伝本編でキーになるのかもしれない。綺伝本編、見たいな……絶対見たい。絶対にやってほしい。絶対に見るので。

 

ガラシャが地蔵行平に己を殺させて一緒にインヘルノ行こうって言ったシーンがあったけど、では歌仙は…?(しんどい…)

・亀甲貞宗の認識が変わった。亀甲貞宗はまだ持ってないので、変態キャラ(ごめん)ということだけ聞いていたのだけど、長義と一緒に城に乗り込むシーンは頭のキレを感じて好きだった。刀剣乱舞はみんな頭がよくて好きですね…。必要なときに必要な演技が出来るタイプの頭のキレは本当に好きです。

・にっかりと亀甲貞宗があやしい会話をして、長義と歌仙はお笑いよりは皮肉屋で、地蔵行平と古今伝授は忙しそうで…という部隊だったので籠手切と獅子王の元気が癒された。

 

今日見て良かったら千秋楽も見ようと思っていたけど、これは間違いなく見ます。

舞台は楽しいなぁ。

絶えぬ灯に期待します。

 

(【8/9追記】獅子王の、「斬った相手を哀れむ俺たちの感情もヌエみたいだな(うろ覚え)」と言っていたのが印象的だった。刀剣男士は刀の本能で歴史を守る、そのために必要とあらば前の主すらも殺す。特に今作では長義のセリフで改めて刀の本能が強調されていたが、その刀剣男士にも人のような感情があり、だからこそ地蔵行平みたいな行動を取る者がいるし、歌仙は前の主について色々考えるし、獅子王は死にゆくものの祈りを受け取れる。人とは決定的に異なる存在でありながら、その由来は人の歴史、人の思いなのか…。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【BL視点の感想…】

 

 

・…………あの、あの、かめちょぎじゃないですか!?!?!!??!???!?!!?…ちょぎかめ???????まぁどっちでもいいです(リバも食うオタク)、既に記憶を喪失してしまっているのだけど、亀甲貞宗がなんかあやしい発言をして長義がやめろよみたいなことをうっすら照れ?みたいなちょっと弱めの声色で言ってませんでしたか(8/9追記:「いいね、君のそういうところゾクゾクするよ」「やめてくれ…」でした)!?!!!?!!???!あの二言と、ガラシャを拐ったと嘘をつくシーンでのお察し会話得意そうなところが私を盛り上げました…………………ハイ以上です